桐原はこれまで、証券会社勤務時代に2回、書き終えた自作の小説を、文芸誌のコンテストに応募したことがある。しかし、いずれも、第一次審査にも引っかからず、砕け散った。今回、自身3作目を書いている。
桐原には、別居中の妻と小学一年生の娘がいる。6カ月前、桐原は、それまで勤めていた証券会社を辞めた。いや、辞めさせられた。リストラされたのだった。本来なら、まだ30代半ば、バリバリにやれる年代なのだが、桐原はその全国各地に支店がある証券会社内において、全営業社員の中、営業成績、常にワースト1位をキープしていたのだ。
当然ながら、会社自体がバブル経済崩壊後の不景気にさらされている中の人員削減、桐原は、そのリストの筆頭に上がり、何の迷いもなく実施され、桐原もまた何の抵抗もなくそれを受け入れた。
リストラが下されたその日の夜、社宅アパートの狭い台所に置かれた小さなテーブルで、桐原は、妻の浩子と差し向かいになって、今後について話し合った。娘の彩佳はその時すでに奥の部屋に敷かれた布団の中で熟睡していた。
桐原は切り出した。「俺、小説家になろうと思う。そのためには、集中してやる時間が必要だ。だから、当分のあいだ、バイトしながら、やっていこうと思っている」
浩子は言った。「何言ってんの? とうとう頭までおかしくなった? そんなんでやっていけるワケ、ないじゃない。彩佳もまだ今からお金がどんどん要るんだし。わかってる?」
「わかってるよ。でも何とかなるよ、やっていけば、何とかなるさ。おまえも、・・・パートかなんかやってさ、二人で力合わせてやれば」と、重圧から逃れ、気持ちが軽くなっていたのか、桐原は、快活にそう言った。
浩子は短く溜め息をついた。そして、「明日から実家に帰ります。もちろん、彩佳を連れて」と言った。
そのあと桐原は浩子から、“あなたの夢のために・・・”だとか、“今さら小説家を目指すなんて・・・”だとか、あるいは、“あなたの営業成績不振のおかげで社宅の奥さん方から何て言われているのか、あなたわかってるの?”だとか、言われた。
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発売日 2004年 アルバム「ユグドラシル」に収録
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