J-Song Stories

00年代の日本のロック・ポップをBGMにえがいた人間"熱いぜ"ストーリーです。

80’Sー22 ♪HEART BEAT♪ 佐野元春

夜中。誰もいない商店街を、尾崎健吾は一人歩いていた。スクーターはガス欠。仕様がないので、歩くしかなかった。

尾崎健吾の母千佳子は、18歳の冬、健吾を産んだ。相手は、2つ年上の市役所公務員。2人が付き合い始めたとき、千佳子は高校1年生で、その相手は、同じ高校に通う3年生だった。

彼が、高校を卒業して、公務員になったあとも、付き合いは続いていた。しかし、千佳子の妊娠が分かると、彼の態度は急変し、冷たくなった。やがて彼は、離島への転勤願を出し、鹿児島の南の島、屋久島へ行った。

彼の家は、先祖から継承される武士の家柄で、彼の父親は、この街の市会議員をしていた。彼が屋久島へ行ってしばらくした頃、ある日、彼の父親は、千佳子に、1万円札200枚が入った封筒を渡し、中絶を求めた。これが、結果的に千佳子に固い決意をうながした。

千佳子は、金は受け取らず、健吾を産んだ。

それから、高校を中退し、千佳子は働いた。昼間は、海苔の加工場、夜は、時給のいいスナックで働いた。そして、健吾が10歳のとき、千佳子は自分のスナック店を持った。店の名前は、ブルーシャトウ。尾崎健吾が今歩いているこの商店街の裏通りにある。

健吾は幼い頃、千佳子の母のところによく預けられていた。

千佳子の母絹子は、たばこ屋を営んでいる。先週、海江田和代に、“今度何かあったらここに駆け込め”と言った場所だ。そして実際、きのう、海江田和代が駆け込んだ場所であった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

作詞 佐野元春  作曲 佐野元春

発売日 1981年 アルバム「Heart Beat」に収録

 

 

Heart Beat

Heart Beat

 

 

 

 

 

80’Sー21 ♪わがままジュリエット♪ BOOWY

前2時前。尾崎健吾は、自宅の広いリビングの片隅で、あぐらをかき、テレビに向かってゲームをやっていた。“ドンキーコング”。せつないゲーム音が静かなリビングに響く。赤い襟付きのシャツにブルージーンズ。尾崎健吾は、今朝と同じ服装だった。

そのリビングから少し離れたところにある、玄関の引き戸が開く音がする。入って来たのは、尾崎健吾の母尾崎千佳子と、千佳子の愛人宮園浩次だった。2人はそれぞれ靴を脱ぎ、正面のリビングに向かって真っすぐ伸びる廊下を歩く。そして、リビングの扉を引く。

「まーた健吾、鍵開けっ放しでー」

カールを巻いた長い髪、派手めの化粧。千佳子は金色のハンドバッグをソファーに放りながらそう言った。夏のせいもあるのか、千佳子は少し露出度のある背中の開いたブルーのワンピースに、ベージュのサマーカーディガンを羽織っていた。

ぴくりともせずにテレビ画面に向かって、マリオを操る健吾。

「こんばんは」

続いて紺色のスーツに黒色と黄色のストライプ模様のネクタイを締めた宮園が、健吾に挨拶をした。

それでもこちらを見ようとしない健吾に、千佳子が、

「健吾ぉー、挨拶ぐらいしなさいよー」

酔っているらしく、ソファーに倒れ込むようにして座って言った。

「まあまあ、いいじゃないですか」

30代半ば。すらっと伸びた長身に、少し長めの髪をポマードでなでつけ、縁なしの眼鏡をかけた宮園が仲裁に入った。

「うっせえなあ!」

健吾は、持っていたファミコンのコントローラーを投げ出し、立ち上がると、リビングの扉を押し開け、廊下を行き、玄関で踵のつぶれたスニーカーをひっかけ、戸を開けて出て行った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

作詞 氷室京介 作曲 氷室京介

発売日 1986年 アルバム「JUST A HERO」に収録

 

JUST A HERO

JUST A HERO

 

 

 

わがままジュリエット

わがままジュリエット

  • BOφWY
  • ロック
  • ¥250

 

80’Sー20 ♪BLUE LETTER♪ 甲斐バンド

れから2年間、全戦全敗。鬼木吾郎はプロになって1度も勝つことはなかった。それどころか、1発のパンチさえ繰り出すことはなかった。

プロとしての最後の試合を終え、引退した鬼木吾郎は、故郷のこの街に戻った。24歳の春だった。吾郎は、地元の運送会社で運転手として働いた。

その年の暮れ、12月のある日。お好み焼き屋を営む両親と中古車販売会社に勤める1つ違いの姉と暮らしていた実家に、1通の手紙が届いた。プロ初戦の前日、吾郎が助けた女性からだった。女性の名前は柏木智子。のちに鬼木智子となる吾郎の妻だ。

智子は、当時、東京で大手証券会社に勤めていた。助けてもらった日の翌日から、智子は、吾郎の試合に、毎回足を運んだ。そして智子は、幾度となく、吾郎を食事に誘った。が、吾郎は、かたくなにそれを断った。何も告げず、東京を去った吾郎の消息を、智子は、吾郎が所属していたボクシング事務所に尋ねるなどして調べ、手紙を書いた。

手紙の内容は、“あの時のお礼を、面と向かってしっかりと言いたい。”ということと、“自分も東京を出て、一緒に鹿児島で暮らしたい。”ということだった。

吾郎は、がらにもなく、と自分で思ったが、その月のクリスマスイブに、智子と鹿児島のこの街で会った。そしてそこで、吾郎は、智子に結婚を申し込んだ。

 

息子の質問に答えなかった運転席の吾郎は、その代わりに、

「なあ和彦、ラーメンでも食って行っか」と言った。

「おお、珍しいな。いいよ」和彦が答えた。

国道3号線を走る、2人を乗せた軽ワゴンは、3分後、進行方向左手にあるラーメン店へと、ウインカーを点滅させながら入って行った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

作詞 甲斐よしひろ 作曲 甲斐よしひろ

発売日 1982年 アルバム「虜ーTORIKOー」に収録

 

 

虜-TORIKO-(紙ジャケット仕様)

虜-TORIKO-(紙ジャケット仕様)

 

 

 

 

BLUE LETTER

BLUE LETTER

 

 

80’Sー19 ♪ラストショー♪ 浜田省吾

郎は、その質問には答えなかった。

実は、鬼木吾郎は、人を殴れない。

吾郎は、今から48年前この街に生まれ、この街で育った。高校ではボクシング部に所属していた。そして、その強さは、高校生No.1。全国大会で2度優勝するなど、いわば、地元のヒーロー的存在だった。

高校を卒業すると、東京のボクシング事務所にスカウトされ、上京した。

それから、数々のアマチュア戦を経て、3年後、プロになった。

プロとしての初戦前日。夕方、間借りをしているボクシング事務所の会長宅への帰路、小さな商店街の中、1人の若い女性がチンピラ風の4・5人の男性に絡まれている光景に出くわした。

男性らはいずれもアルコールが入っているようだった。

吾郎は、反射的にその男性らを殴った。一人一発ずつ、確実にしとめていった。

男性らは、それぞれ、顎の骨や肋骨を折るなど、何らかの負傷をした。

吾郎は、そのあと、傷害容疑で警察から取リ調べを受けた。幸い、正当防衛がとおり、罪に問われることはなかった。が、吾郎は、その日を境に、人を殴ることができなくなった。

殴った4・5人の男性は、18歳から20歳までの大工の見習いだった。

 

吾郎の翌日のプロデビュー戦、3ラウンドKO負け。一発のパンチもくりださず、ただただ、相手からのパンチを浴び続けた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

作詞 浜田省吾 作曲 浜田省吾

発売日 1981年 アルバム「愛の世代の前に」に収録

 

 

愛の世代の前に

愛の世代の前に

 

 

 

ラストショー (1981)

ラストショー (1981)

  • 浜田 省吾
  • ロック
  • ¥250

 

 

80’Sー18 ♪ダディーズ・シューズ♪ ARB

んだよ、補導されたんじゃなかったのかよ」

スズキの軽ワゴン“エブリイ”を運転する父鬼木吾郎に、助手席に座っていた息子鬼木和彦がそう言った。

高校が夏休みに入ると、隣街にあるボクシングジムでの練習は、週末だけではなく、平日も行われるようになった。その練習帰り、夜9時過ぎ、カーラジオからは、巨人対ヤクルト戦の中継がながれていた。

「すまん、すまん。てっきり、・・・その、警官もおったからよぉ・・・」

前を向いたまま、ほとんど無表情で、吾郎が答えた。

鬼木吾郎は、先週の月曜日の夕方、出前の配達を終え、商店街にある自分の店の真横に隣接した駐車スペースに車を止めると、向かいにある理髪店の前で、海江田和代が西郷寛太を含めた3人組にからまれているところを目にした。そこへ、歩いて通りかかった尾崎健吾が、西郷寛太に殴りかかった。しかし、見事にそのパンチは外れ、逆に、尾崎は、見事に西郷から右ストレートを右目に受けた。尾崎は路上に倒れたが、すぐに起き上がり、再度、西郷に殴りかかろうとした。その時、自転車で巡回中だった警官が、50メートル程離れた商店街の入り口から、事態に気付き叫んだ。西郷たち3人は、一目散にそれぞれのスクーターに乗り、その場から矢の如く逃げた。警官は、そこから先、追うことはしなかった。

そのあと、まだなり立てたばかりかのような、その若い警官は、和代と健吾のところに行き、

「大丈夫か」と聞いた。結局、“正当防衛”ということで、尾崎健吾には何のおとがめもなかった。この“事実”を、鬼木吾郎は、きのう、理髪店主から初めて聞かされたのだった。

「しかし何でとめなかったんだよ」助手席の鬼木和彦が、シートを少し倒し、組んだ両手を頭の後ろにもって行きながら、運転席の鬼木吾郎にそう言った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

作詞 石橋 凌 作曲 石橋 凌

発売日 1981年  アルバム「BOYS&GIRLS」に収録

 

 

BOYS&GIRLS

BOYS&GIRLS

 

 

 

ダディーズ・シューズ

ダディーズ・シューズ

  • A.R.B.
  • ロック
  • ¥250

 

80’Sー17 ♪FENを聞きながら♪ HOUND DOG

「へっ、またイカ〜?!」

福田良雄の弟洋介が中学校の部活から帰ってくるや、食卓を見てそう嘆いた。

するとすかさず、すでに椅子に腰掛けていた祖母トラが、

「こら!何を贅沢な事を言うちょるか! ばち当たっど!」とたしなめた。

福田家は、先祖代々引き継がれて来た漁師の家系だ。

この家は、良雄の妹麻美が生まれた10年前に、それまでの古い建物を建て直して造られたものだ。まだ新しいがその間取りは7人家族には少し狭い。

1階は、玄関から入るとすぐに8人掛けのダイニングテーブルがあり、台所がある。そこで家族全員が3度の食事をとる。台所の隣には6畳の和室が2部屋続いている。1部屋は福田良雄の祖父福田治吉と祖母トラの部屋。もう1部屋は、福田良雄の父福田治夫と母敏子の部屋だ。あとは、洗濯機がある脱衣所と風呂場、そしてトイレがある。2階は2部屋。良雄と洋介の相部屋、麻美の部屋だ。

手を洗った洋介が席につく。長テーブルの、手前の長い辺に右から麻美、良雄、洋介。奥の長い辺には、麻美の向かい側に母敏子、そしてその隣に、トラ、治吉と並ぶ。治夫は、長テーブルの短い辺、麻美と敏子の間に座っている。ここが一番テレビが近いからだ。しかしテレビは治夫の真後ろに位置している。だから治夫は体を良雄の方に向けた状態で食べる。そして焼酎のお湯割りをちびちび呑む。テレビではプロレス中継がながれていた。

「もう弁当もイカ臭くってな。なあ兄いちゃん」

「こらあ! まだ言うか!」再び洋介とトラのバトルが始まる。

今日の福田家の夕食は、イカそうめんとカレーライス、厚揚げと里芋の煮物、キャベツの千切り大盛だ。

「あれ? 兄いちゃん、何で焼けてんの?」

洋介が、わさび醬油につけたイカそうめんを食べながら、良雄の顔を見た。

「良雄兄いちゃん、もしかして、海行った?」

おかっぱヘアーの麻美も笑いながら良雄の顔をのぞき込む。

真っ赤に日焼けした良雄は、

「・・・まさか」とだけ言って、自分自身もまた笑った。

早々に食事を終えた祖父の治吉が、椅子から立ち上がり、隣の畳の部屋に行く。代わりに、洗い物を終えた母敏子がようやく席につく。そして良雄に、

「良雄、あさってだったかね、三者面談」と言った。

「・・・あー、うん」良雄が答えた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

作詞  藤村一清   作曲  藤村一清

発売日  1983年   アルバム「BRASH BOY」

 

 

BRASH BOY

BRASH BOY

 

 

 

 

80’Sー16 ♪時に愛は♪ オフコース

江田由美子の実家・津山家は、この街の東側、車で30分ほど行った先の山の麓にある。

両親とも健在で、農業で生計を立てている。

三姉妹の長女である由美子は、地元の商業高校を卒業すると、東京の百貨店に就職した。そこで、その年、客として来ていた現在の夫海江田純平と出会った。

由美子より4歳年上の純平は、当時、リゾートホテルのレストランでコックをしていた。翌年、由美子が二十歳の時、和代が生まれた。

由美子の父親は、何の前触れもなく起こったその事実に、激怒し、半ば勘当同然となった。

その後、海江田純平は料理の腕を磨き、独立し、自分の店を持った。

そのまだ小さかったフレンチレストランは、都内で好評判を得て、2店舗目、3店舗目と、純平は店を増やしていった。

東京都内及びその近郊で、計7店舗を所有するオーナーフレンチシェフとなっていた純平は、ある日、友人から群馬でのリゾート施設の共同開業計画を持ち込まれる。

しかし、その施設経営は、期待に反して上手く行かず、3年で行き詰まり破綻する。

純平は多額の負債を抱え、おまけにその友人は行方不明となり、今から2年前、資金繰りに困窮した純平は、ついに店も車も自宅マンションもすべて売り払った。

それでもまだ負債は残ったため、純平は都内の高級ホテルで住み込みで朝から晩まで、清掃など含め調理以外の仕事もなんでもやった。

その間、由美子と和代は、由美子の実家のあるこの鹿児島の田舎街に身を寄せた。

だが、由美子の父栄蔵は、一徹な性格ゆえ、いまだ由美子を許す素振りを見せず、由美子たちは、由美子の高校時代の同級生福田敏子から紹介してもらったこのアパートに住んでいるのだった。

由美子と和代、二人が晩御飯を食べ終えた頃、

6畳の部屋の隅にある、3段の白いカラーボックスの上にのせてあった電話が鳴った。

和代が受話器を取ると、受話器の向こうの声は、父純平だった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

作詞 小田和正 作曲 小田和正

発売日 1980年 アルバム「We are」に収録

 

 

We are

We are

 

 

 

時に愛は

時に愛は